所感雑感の置き場

ゲームプランナーになりたい大学生が色々についての所感を書き散らす場所です。

「アイドル論の教科書」についての所感

自分の好きなコンテンツで卒論を書こう、とはオタクの大学生の多くが通る道なのではなかろうか。本書は、そうしたことを望む我々に多くの示唆を与えるものである。そもそも好きなものを論じるのは結構難しい。オタクの推しプレゼンなら関係ないことではあるが、「論じる」となればその難しさは跳ね上がる。好きという主観的視点から出発しているし、好きであればあるほどその視野は一部に狭窄化してしまっている可能性があるからだ。そうした主観的視点から離れて客観的にも納得感のある論を展開するのはかなり困難だ、と個人的に感じる。そして論じる以上、そこには確固とした論理性や論拠が求められるだろう。その論を展開するためのデータはどのようなデータからひっぱればいいのか?あるいは首尾よくデータを見つけたとしてそのデータが信用に足るものである証拠はないかもしれない。この部分を解決する方法を我々の多くは知らない。本書では、実際に論を展開することを通じて我々に「アイドル」のみならず、好きなものをアカデミックに論ずるための方法の一例を提示してくれている。内容としては、文系編と理系編の二編ごとに三つの論が展開されている。これは単純に読み物として面白いだけでなく、それぞれが違う側面から「アイドル論」を展開するため、ひとつだけでない、いくつもの論展開の方法を提示することにつながっている。

作者の一人、塚田氏は本書を大学生がアイドル(文化)を論じることができるようになるための「学習参考書」として執筆したと記している。そして本書で例題と模範解答を提示して、我々を「触発して、各論考の『応用編』を紡ぎ出してもらうこと」を目標にした、としている。本書はまったくその効果を十全に持つものだと私は、読了した瞬間に感じた。自分の好きなもの(私は今アンジュルムというアイドルにハマっているので特にそこについて)について論じてみたいと思わせられた。開明的な気持ちである。さてアンジュルムをどのように論じようか。

 

「モチーフで読む美術史」についての所感

イラストレーター、あるいは画家が絵の中に描きこんだあらゆるものは基本的になんらかの意味を持つ。それは象徴であり、心情であり、告発であり、そしてあるいはスポンサーやクライアントの要望である。本書「モチーフで読む美術史」はそうしたものを我々素人が読み解くための手がかり足がかりを与えるものだ。あるモチーフの意味やその意味を持つに至った歴史が2ページにわたって記述され、その後にそれが描かれた絵画が掲載された2ページが続く、という形式で262ページにわたって様々なモチーフが紹介される。元は新聞連載として執筆されたものがベースとなっているため、一つ一つが独立しており、「少し読んでは手を止めそのモチーフが描かれた絵画を探してみる」といった楽しみ方ができることはこうした美術についての新書としては読者にとって嬉しい構造だ。紹介されるモチーフも、動物、有機物、無機物、概念、といった順番で整理されて紹介されており、カテゴリーごとに扱われ方の違いを考えてみたりすることもできるようになっている。

一度美術館に行き、本書を一読してからまた同じ美術館の同じ展示を見にいくと、1度目には気づかなかったことが「わかるようになった!」という感覚を味わうことができるだろう。あるいはなにかのアニメや漫画の一シーンを切り出して、「ここにかいてあるこの動物はこのキャラクターのこんな特徴を象徴しているんだ!!!!(グルグル目」なんて妄言をSNSで書き散らしてみたりすることもできる。そしてあるいは自分の手で本書のモチーフを使って象徴的な絵を描いてみるのもたのしいだろう。卑劣なアニメキャラクターの肩にネズミを走らせてみたり、インキュバスのキャラクターにウサギを抱かせてみたり、ただのファンアートとしてでもいいし、まったくのオリジナルでもいい。そうして描いたものは何も考えずに描いたときよりきっとあなたにとって思い出深いものになるだろう

 

以下では私が本書で紹介されたモチーフの中から3つ、興味深いと感じたものを感想とともにピックアップしてみた。

・葡萄

これは主にキリスト教における最も神聖な食物だそうだ。キリストが最後の晩餐でワインを自らの血だと言ったエピソードはとみに有名だ。さまざまな聖書のエピソードや歴史の流れの中で葡萄の木は人類の現在を贖うイエスそのものを象徴し、葡萄園は天国をあらわすものとなったそうである。個人的にはなんらかの物語のなかで、かつて繁栄し、地上の楽園と呼ばれた独裁国家や主義国家が「元は葡萄園だった」なんて表現されていたら実に皮肉で雅だなあと思う。

 

・魚

これもまたイエスキリストの象徴である。初期キリスト教でのキリスト教そのものやその信者のシンボルとなっている。これは本書内の内容とは全く関係ないのだが、エジプト神話では魚はオシリス神の完全な復活を妨げたものとして嫌われているそうで、同じものが一方では死後復活した救世主の教えの象徴となり、一方では神の復活を妨げたものとされる、というのは非常に興味深い。発生した地域のどちらにおいても魚は身近で重要な食料であったろうになぜこのような違いが生まれたのだろうと考えさせられる。

 

・雷

洋の東西を問わず、神の仕業・神の怒りとして表現される。ギリシャ神話のゼウスや北欧神話のトールは言うに及ばず、キリスト教においても天にある神の怒りとして表現される。今よりもずっと自然の事物にたいして人間の左右できる・影響を与えられる範囲が小さかった古代において、人智を超えてあり、どうしようもない雷に世界中のあらゆる人類が人ならざる大いなる力の存在を感じたことは、当たり前なのかもしれないが、住むところや考えや肌の色が違えど我々は同じ一つの種なのだと感じさせられて趣深い。

「仁義なきキリスト教史」についての所感

私がまず読み終えて感じたのは、「物語」が存在することの価値についてである。

この本はとても読みやすい。基本的にとても陰鬱陰惨なキリスト教の歴史について書きながら、また基本的に学術的な姿勢としても真摯な部分が多い姿勢で書きながら本書が読みやすいのはわかりやすい「物語」であるように、と筆者が意識して書いているからだと感じられる。

この本は「娯楽作品」として書いている、と筆者はあとがきで書いている。そして「娯楽作品」となるように学術的な正確さと物語的な演出とを比べた時に演出の方を取った場合も多いと続き、本書の立ち位置を語っている。つまり、本書は三国志ではなく三国志演義である。キリスト教史という歴史にもとづき形作られ、物語化されている。物語化、つまり我々読者が素直に理解できる物語としての道理や論理に整えられて、出されている。だからこそこの本は読みやすい。我々は、学術的に正しい表現で表されるような不確かさより、学術的には正しくない確かさにより娯楽性を感じるのである。

こうした物語の価値は、何が真実かわからないような技術がどんどん生まれ出てくる昨今において、良くも悪くも高まってきているように感じられる。わかりやすい敵や解決策が存在しないこの世の中を、我々は否定したいのだと考えさせられる。わかりやすい悪、わかりやすい敵、わかりやすいみんなが幸せになる解決策が存在して欲しいのだと多くの人が思っており、またそう感じることが人にとっての快楽なのだ。そうこの本を読む中で改めてそう認識させられたように思う。

 

話は変わって内容ーー、つまりキリスト教史についてである。この本自体が前段で書いたような姿勢をとっていることとキリスト教史の最初(非神話的人物としてのキリストの活動や初期の使徒たちの宣教活動など)がきわめて不確かな歴史的事象であることもあって、この本の前半部分と後半部分とではその描写のタッチがかなり異なる。それは歴史的事象としての確かさの違いによる情報の密度のようなものの違いだろう。しかして、通底して感じさせられるのは「宗教家はヤクザ」ということである。登場人物みんなヤクザに翻案してるんだから当たり前だろ、と思われるかもしれないが、そうではない。ヤクザに翻案できるだけの何かがないと、ヤクザに翻案はできないのである。言葉ヅラだけヤクザことばになっていてもおもしろくない。その行動だったり、思想だったりにヤクザみがなければ。むしろ因果としては宗教家の中にヤクザ性があるからこそ、それをキッカケに登場人物みんなをヤクザにしたという方が正しいと思われる。宗教家、つまりここでのキリスト教者は(精神的)権威の威を持って権力や金を集め、そうした権威によって人の生き死に重大な影響を及ぼす。しかし同時にその存在が原始的な世界にあっては社会システムとして人の生活を助けたり、ソーシャルなシステムとしての機能をもったりしている。そして、精神性に自らの権威や強さをよってたっている。事実を抜き出してみるとなんとヤクザと同じだろうと思わせられるほど宗教家とヤクザはよく似ている。その意味で、この共通点に着目して娯楽性を添加してこのようにアウトプットできたことには賞賛を送るしかない。

 

キリスト教者に対する自分のイメージは大概悪かったが、しかしそれを超えて、この本は私にとってのキリスト教者のイメージを悪くした。パウロ、ルターのような傲慢不遜で、ある一面の才覚のみの豪腕でものごとを自分の望むままにしようとするあり方は吐き気をもよおしそうになるし、ローマ皇帝にとりいって敵対勢力への復讐をはたそうとするある宗派のトップの姿は「聖職」という言葉には全くそぐわない。キリスト教の歴史の中のヤクザな部分を抽出して物語として構築しているのだから当たり前かもしれないが、登場人物たちがみな全く尊敬できない。この本を通じて知るキリスト教史から私たちはなにをまなべばよいのだろうか?何を知れば良いのだろうか?それがわからない。物語化されたその奥にあるのはなんなのだろうか。新しいことを知る楽しさはあるが、そこから何を学ぶことができるかわからない。