所感雑感の置き場

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「仁義なきキリスト教史」についての所感

私がまず読み終えて感じたのは、「物語」が存在することの価値についてである。

この本はとても読みやすい。基本的にとても陰鬱陰惨なキリスト教の歴史について書きながら、また基本的に学術的な姿勢としても真摯な部分が多い姿勢で書きながら本書が読みやすいのはわかりやすい「物語」であるように、と筆者が意識して書いているからだと感じられる。

この本は「娯楽作品」として書いている、と筆者はあとがきで書いている。そして「娯楽作品」となるように学術的な正確さと物語的な演出とを比べた時に演出の方を取った場合も多いと続き、本書の立ち位置を語っている。つまり、本書は三国志ではなく三国志演義である。キリスト教史という歴史にもとづき形作られ、物語化されている。物語化、つまり我々読者が素直に理解できる物語としての道理や論理に整えられて、出されている。だからこそこの本は読みやすい。我々は、学術的に正しい表現で表されるような不確かさより、学術的には正しくない確かさにより娯楽性を感じるのである。

こうした物語の価値は、何が真実かわからないような技術がどんどん生まれ出てくる昨今において、良くも悪くも高まってきているように感じられる。わかりやすい敵や解決策が存在しないこの世の中を、我々は否定したいのだと考えさせられる。わかりやすい悪、わかりやすい敵、わかりやすいみんなが幸せになる解決策が存在して欲しいのだと多くの人が思っており、またそう感じることが人にとっての快楽なのだ。そうこの本を読む中で改めてそう認識させられたように思う。

 

話は変わって内容ーー、つまりキリスト教史についてである。この本自体が前段で書いたような姿勢をとっていることとキリスト教史の最初(非神話的人物としてのキリストの活動や初期の使徒たちの宣教活動など)がきわめて不確かな歴史的事象であることもあって、この本の前半部分と後半部分とではその描写のタッチがかなり異なる。それは歴史的事象としての確かさの違いによる情報の密度のようなものの違いだろう。しかして、通底して感じさせられるのは「宗教家はヤクザ」ということである。登場人物みんなヤクザに翻案してるんだから当たり前だろ、と思われるかもしれないが、そうではない。ヤクザに翻案できるだけの何かがないと、ヤクザに翻案はできないのである。言葉ヅラだけヤクザことばになっていてもおもしろくない。その行動だったり、思想だったりにヤクザみがなければ。むしろ因果としては宗教家の中にヤクザ性があるからこそ、それをキッカケに登場人物みんなをヤクザにしたという方が正しいと思われる。宗教家、つまりここでのキリスト教者は(精神的)権威の威を持って権力や金を集め、そうした権威によって人の生き死に重大な影響を及ぼす。しかし同時にその存在が原始的な世界にあっては社会システムとして人の生活を助けたり、ソーシャルなシステムとしての機能をもったりしている。そして、精神性に自らの権威や強さをよってたっている。事実を抜き出してみるとなんとヤクザと同じだろうと思わせられるほど宗教家とヤクザはよく似ている。その意味で、この共通点に着目して娯楽性を添加してこのようにアウトプットできたことには賞賛を送るしかない。

 

キリスト教者に対する自分のイメージは大概悪かったが、しかしそれを超えて、この本は私にとってのキリスト教者のイメージを悪くした。パウロ、ルターのような傲慢不遜で、ある一面の才覚のみの豪腕でものごとを自分の望むままにしようとするあり方は吐き気をもよおしそうになるし、ローマ皇帝にとりいって敵対勢力への復讐をはたそうとするある宗派のトップの姿は「聖職」という言葉には全くそぐわない。キリスト教の歴史の中のヤクザな部分を抽出して物語として構築しているのだから当たり前かもしれないが、登場人物たちがみな全く尊敬できない。この本を通じて知るキリスト教史から私たちはなにをまなべばよいのだろうか?何を知れば良いのだろうか?それがわからない。物語化されたその奥にあるのはなんなのだろうか。新しいことを知る楽しさはあるが、そこから何を学ぶことができるかわからない。